上書き

所用で宮崎県の都城市に行ってきました。
1時間ほど時間が空いたので、都城跡の都城歴史資料館を見てきました。
展示品のレベルは低いものでしたが、2月15日までの企画展「都城の民俗芸能」は非常に面白かった。一つの市に34もの異なる田楽や神楽、相撲甚句などが伝わってるのが魅力的でした。同じ島津の領地であったのに、こうも風習が違うもんなんだと驚きました。
さて、その都城跡には「狭野(さの)神社」が敷地内にたってます。祭神が「神武天皇」という、さすが神話の国宮崎県に相応しい展開で嬉しかったのです。
神社の由来には、
「この都島の地は神武天皇の皇居の御跡であって天皇が御東征の途に上らせられて後其の御跡を汚し奉らないやうに塚を築き宮古神と名す社を建て祀って居た。(以下意訳)その後、社は火事で焼け落ちて人々は其の後に木を植え崇拝したと伝えられている。」とあります。
が、これは大嘘です。
都城市文化財」という都城市教育委員会が編纂した本によると、
そもそも大永6年(1526年)にあって、しかも他の所に建っていた「須久束大明神」(由来、祭神、建てられた時代不明)を、幕末の国学の昂揚で都城跡を神武天皇の宮殿跡だった事にしよう運動が起きて、明治5年になって祭神を神武天皇とし、名前も神武天皇の幼名狭野尊から狭野神社と改め他の場所に移したと。
んで、昭和15年神武天皇皇位2600年記念に現在地に再度移されたのです。
須久束大明神は存在を消されてしまいました。
まったく酷い話です。
歴史って、こういう風に後の時代の人々にどんどん上書きされてくものなのだなーと実感しました。
以上。
余談ですが、宮崎県の高原町にも狭野神社があって、そこの由来は、
狭野神社の創建は非常に古く、第五代孝昭天皇の時代に、神武天皇ご生誕の霊跡に創建されたと伝えられています。」
初代神武天皇から九代開化天皇までは神話の登場人物で、モデルになった人はいたと思われますが、これもヤッパリエピソードなんかは後の時代の人たちが創作したりしたものなんですよね。
という都城探訪でした。オモシロかった。